←higuchi emiko
方向
においのする部屋で 薬品や冷えた汗のにおい 食べ物や濁った液体や茶色い小さなゴキブリの 無数の糞のにおい 湿ったほこりのにおい 忘れられた存在のにおい においのする狭い部屋で いも虫みたいに布団をかぶって眠っていると 訪ねる人がいる まぶたが重い 立てつけの悪い引き戸をドンドンと叩くのは 誰だろう 硬いゲンコツは誰の手だろう なにかもたらす手だろうか なぜか コージーコーナーのナポレオンパイの 輝きを思い出した そして安っぽい派手なシャンデリア 私はなんだってこんなところに寝ているのだろう 銃撃戦の夢をみた 布団の綿に打ち込まれるボスボスボスという鈍い音を聞いた 闇の街に 皮ジャンを着た若い仲間がたくさんいたはずなのに 目覚めれば一人だ いも虫のまま生きている ガスの集金だと外で声が大きくなる 母が危篤だと外で声が大きくなる 人殺しだ放火魔だと声が大きくなる 山が噴火で海が火事だと大きくなる めらめらと燃える大海原よ 窓の外はそぼ降る雨に暗く沈んでいるが ガス集金人の声はオレンジ色に輝いている そこは
私は立ちあがろうか ガス栓は開かれたままだ
見たこともないしあわせそうな笑顔の肉親よ 私は私の部屋をいまだに持ちえないのです 私はますますいも虫として眠るばかりなのです 私の眠りを無関心が幾重にも巻いて守ってくれます 眠りのなかでは熱い銃激戦が繰り広げられるのです それが私の求めていたものなのでしょうか 仲間への信頼 尽きることのない議論 向上するための より高みへ向かっていくためだけに存在する 疑いの余地のない議論
血が流される寸前に 夢は別のシーンへ移ります 夢に絶望はありません
そうしてここは 今度は誰の部屋なのでしょう
重い引き戸の向こうで ガス集金人の声がする 方向を指し示す わずかに赤い印がいまはまだ見えるような 気もするのですが
＊２９歳の方向。成長したのか？/なにか理由がなければ立っていられないのはなぜなんだろうに収録
樋口えみこ profile/99.8TOP/TOP
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