９月のピカイチ

「つまり命には本人が思うほどの重さはないと　　川内　遥 　・・言うことです」僕は言った 　彼女の視線はかなしげだったがしっかりと僕の顔の 　右の辺りに注がれていた 　そこには青黒い痣があった 　早朝、牛乳配達のバイクに30ｍほど引きずられて 　ブロック塀のところで擦ったのだ 　済まない 　と、配達員は言った 　でも君みたいな、若いのにぶらぶらしている男をみると 　つい、轢きたくなってしまう 　ロッシーニの曲を口笛で吹きながら彼は去っていった 　彼女は僕の痣に触れた 　「あなたの命の重さは・・」バッグからバンドエイドを 　取り出すと、彼女はそれに化膿止めの薬を塗った 　「そんなこと、しないで下さい」 　「でも・・あなたの心が・・されたがっているから・・ 　私はそれを止められない」 　彼女は僕の痣をバンドエイドで塞いだ 　冷たい感触がした 　「あなたの命は重いわ、私の命よりずっと」 　彼女の乳児が揺りかごの中で泣き出した 　彼女はこちらに背中を向け、シャツのボタンを外すと 　下着を少し捲り、乳児に乳を吸わせている 　「私の命はこの子に吸われているの、日に日に・・ 　戻って来る日はあるのかしら、私の命の重さが」 　ブラインドからは夏の光が差し込んでいた 　僕は乳を与えている彼女の肩を背中向きのまま 　支えるように掴んだ 　「自分の優しさに耐えるのは、若い時分には辛いことだわ 　でも・・」 　「でも？」 　「あなたはそれに耐えられると思う」 　彼女の肩越しに、甘い乳の匂いがした 　「また逢えますか？」と喉まで出かかった 　でも、ここは遠い、近いのに遠い 　誰からの許可もいらないのに、いつでも逢えるのに 　それでも僕は逢うことを抑えていた 　逢うと自分が肯定的な人間に変わってしまうのではないか 　本当はそれが怖かった 　受け容れること、老いること、奔るのを止めなければ 　ならないこと 　乳児をあやして戻すと、身なりをまた整えて彼女は 　振り返る 　そして少し笑うと、指先の雫をみせた 　「命の水よ」 　そしてそれを拭うと、結わいていた髪を解いた 　「これが女の私・・あなたの前での女の私・・悪くないでしょ・・ 　悪くない」それから僕の痣を少し指で押して 　「今度逢うときは、命の重さなんて話題、忘れてるよ」 　と、また笑った 　ひどく暑い日なのに 　坂の途中まで彼女は僕を送りに出た 　隣家の老婦人が道路に打ち水をしていた 　僕らは別れた 　振り返ると、陽炎で彼女の肢体が揺らいでみえた