小詩集 ジャネット／こんなことって／こわい電車瀬戸智子
ジャネット
部屋を明るくすると ジャネットはゆっくり目をあけた
私が入ってきたのに気付いているのだろうか
灰色の目はぼんやりと天井を見つめている
薄茶色の髪は軽くウェーヴがかかっていて きれいだ
白人の髪はどうしてこんなに細くて柔らかいんだろう
毛布からのぞく長い足は爪が伸び過ぎている
べッドルームはきちんと片付いている
大きなドレッサーの前にはたくさんの化粧品が並んでいて
その脇に化粧をしたジャネットの写真がある
どこかのビーチで撮ったもので 女優のように派手な笑顔をつくってこっちを見ている
この写真をヘッドの上のジャネットは見ることがあるんだろうか
声をかけると 白い顔をこちらに向けて
病気ではないのだろうが苦しそうに
写真の中と同じ大きな目で何か言った
あまリに痛々しくて何を言ったのかわからなかった
私は深呼吸をした 大きなため息のようになってしまった
毛布をどけて
ジャネットの花模様のネグリジェを腰までたくしあげる
むきだしの細くて白くて長い脚
ジャネットの身体を向こう側に倒す
あまりにも無抵抗な人の身体はすごく重い
その腹にはごついおむつが着いている
脇腹のテープをはがし 皮を剥くようにおむつをはぎとる
そんな予感はしていたがおむつの中はべっとりした糞で溢れていた
白人女の糞を見るのはこれが初めてだった
いや自分以外の人間の糞なんてきっと今まで見たことがない
糞がこぼれないようにおむつを袋のように持ってゴミ袋にいれる
ここまでは簡単だ
ジャネットの尻のまわりはまだまだ汚れているから
ウェットティッシュで拭かなくてはならない
何皮拭いても黄土色に染まった尻はなかなかきれいにならない
台所のガス台の掃除をする時を思い出した
たいして好きな仕事じゃないのに 完璧にきれいになるまで止められないのだ
まったく動かないジャネットはモノのようで
私はそれを憑かれたように掃除している
ふと臭さを感じないことに気付いた
こんなに糞に顔を近づけているのに
自分の糞より臭くない
知らないうちに私は口だけで息をしていたのだ
多分おむつをはいだ時から 私の鼻は作業の邪魔にならないように
そのはたらきをやめていたのだろう
だから不快な思いをせずにすんだのだ
たくさんのウェットティッシュを使って やっと尻がもとの色にもどった時
私の顔の毛穴からは汗が溢れていた
ジャネットの尻は皺だらけで 枯れたほおずきの皮みたいだ
これから新しいおむつをつけにかかる
昼間付き添いの人がやっていたのを見た限りでは簡単そうだったのだけど
立ち上がらせないで下着を着けるのは普通の人に対しても難しい
まず横にして尻の脇とベッドの間におむつの端を挟み込むのだけど
何度やってもうまくいかず そのたびにジャネットの身体が大きく揺れる
私は片足をベッドの上について力任せにジャネットの身体を持ち上げ
やっとどうにかうまくいった
それにしても几帳面な人がペンで書き込んだみたいに全身くまなく皺だらけだ
次にジャネットを仰向かせると
四十年くらい前に私の愛人をひり出したその部分がどうしても見えてしまう
クリトリスはどうなっているのだろうなどとバカな好奇心が一瞬頭をかすめる
次の瞬間 それを察したように
露わになった股のあたりを隠そうとしてジャネットの手が弱々しく伸びてきた
我に返って頭を切り換え 事務的にかつやさしく手をどけた
おとなしく従いはしたが
目は虚ろでも 八十歳でも 女の恥じらいは老いてはいない
なんだか切なくなってきて
さっさとおむつをへそまで上げて前を覆ってやった
何度も身体の向きを変えさせられたせいかジャネットも疲れているみたいだ
口からもれる鼾のような呼吸の音が荒くなってきた
その音に急かされるように慌てて両方の腰のテープを留めて
どうにかおむつをきちんと着けている状態になった
ひとつの作品が完成した時みたいな疲れが心地よい
初めてにしては上出来じゃないだろうか
ネグリジェの裾を膝まで下ろし 薄い夏の布団を掛けてやると
ジャネットは安心したように眠ってしまった
私はとにかく煙草を吸いたかった
…うわちょっとあんた誰よ何であたしの隣で寝てんのよしかも裸だしうそじゃあもしかして
やっちゃったとかでもあたしあんた知らないしああそうあのお店が閉まってからうち来て飲
んだんだええ草も吸っちゃったんだあほんとだ全部なくなってるこないだ買ったばっかなの
にああもう全っ燃覚えてないわあしかもすっげえ頭痛いし胃のあたりとか気持ち思いしああ
もう吐きそうしかし何であたしも酔っ払ったからってこんな奴うちに引っぱリこんじゃった
んだろすげえ地味な顔しちゃってモテそうもないしあーあこんな奴とやっちゃったなんてマ
ジですかもお最悪しかも何そんな優しそうな顔でこっち見てんのよあやだ今触ったでしょ気
持ち悪いもういいから早く服着て帰れって口で言わなきゃわかんないのかなあブサイクなう
えに勘も鈍いのええもしかしてまたやりたいのてめえいい加滅にしろよ今顔見てるだけでも
相当キテんだからさあええ何あたしの方が先に好きだとか言ったのそんな訳はもおなんであ
んなに飲んじゃったんだろ本当にあぁどおしよちょっと待って今お前って呼んだそれってあ
たしのことかな何で知らない奴にお前って呼ばれなきゃなんないの口のきき方知んないのあ
あもう自分のせいとはいえ腹が立つわもう一生二度と酔っ払わないわとか言っても飲んじゃ
うけどこれはないでしょこれはだーから顔近付けてくんなってほらほらもう仕事行かないと
いけないんじゃないのえ今日日曜なのまあ何でもいいけどさとにかく今回のことはなかった
ことにしてまた赤の他人として関係ない所で生きてゆきましょうって言おうとしてんのにな
んで名刺出すかな知りたくないって興味ないって社会人でも学生でもまったく何考えてんだ
かもうこいつがいるだけで自分が情けなくなってくるわトホホとか言いたいわよ死語だけど
あれでも普通こういうのって男が悩むもんなんじゃないのよくドラマとかでも女に間違いで
したとかいって謝っちゃたりしてそれはまあいいやとにかくうまいこと言って帰ってもらお
うほら早くJRの駅その大っきい道出てすぐそこだからわかるでしょいいのいいのあたしが送
んなくったって一人で行けるってすぐわかるってもうコーヒー飲みたいんだからもちろん一
人でねああもうお願いですから帰って下さいもうほんとに敬語で謝りますからここはひとつ
ねいいよビッチでもクソ女でもそうそうその通りですよだからもうネだって覚えていないん
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き変わっちゃってどうしたのよあ服着んのそこに落っこってんじゃん何やってんの早く服着
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じゃん似合ってないけどね何さっきから怖い願しちゃってあれちょっと待ってよあんた正気
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ょっ待っ痛いじゃん何すんの冗談じゃぅうわ血がいっぱいこれ全部あたしの血やだ痛い信じ
らんないなんであんたがそんなことすんのあっどこ行くのよ逃げんの部屋散らかしっ放しで
うわあ動けない痛いわ血ぃ止まんないわ怪我してるわやだもうシーツ血まみれじゃん洗うの
めんどくさもうなんでどうすんのあいつほんと最低…
あ、間違えた、と思った時にはもう動きだしていた
次で隣りて引き返さないと
前に座っている軍服の若い男は右腕がない
傷口がまだ血で濡れていて 左手に取れた右手をしっかり持っている
男には蠅がたかっている
髭だらけの顔はよく見えないが眠っているみたいだ
すぐ横の髪の長い女がいきなり笑い出した
天井を見つめて途切れることなく裏声で笑っている
この女 髪はボサボサだし靴は履いてないしなぜか膝の上には食べかけのハンバーガー…
ただスーツだけはきちんと着こなしていて
メイクと髪と靴と笑い声を何とかすれば三十代前半の普通のアジア人女性だ
五分は経っただろうが笑いはおさまらない
時々息が詰まって目を白黒させてむせているがそれでも裏声を車内に響かせている
何が起こっているんでしょうな 私の隣の白人の老紳士が言った
まったくね、と言おうとした声が止まってしまった
老紳士の高い鼻の両わきの目はどう見てもビー玉で
それがしっかりこっちを見ているのだ
しきりに貧乏ゆすりをしている片足は義足なのでカチャカチャ金属の音する
まったく何が何だかわからない
言っちゃ悪いけど異様な人達とたまたま乗り合わせてしまったようだ
とりあえず何事もなく次の駅に着くのを祈るのみだ
目のやり場にも困るしどうしたらいいんだか
寝たふりでもしたいけどこんなに喧しい中じや却って不自然だ
電車はまだまだ止まらない
ドアの近くで取っ組み合いの喧嘩をしている白人女二人
ひとりは素っ裸 ひとりは真っ白い髪を振り乱して何か叫んでいる
それを見ながら黒人の警官が巨大なペニスをしごき続けている
浅黒い肌の少年がその警官から抜き取った拳銃をつきつけて
アラブ系の盲のオヤジにケツの穴を舐めさせている
さすがの私も見ていられなくて窓の外に目をやると
夢野久作のあの本の笑い声が暗闇に轟いている
それが唯一安心できるもののように思えた
私も静かに狂っているのか
あ 今気付いた 私が乗ったこの電車
駅なんかなかった ホームなんかなかった
次の駅も終点も…
電車はまだまだ止まらない