『レモン』
「レモンはどうやって食べるのがお好きですか？」
私は見知らぬ男と向き合って喫茶店の一角の席に座っていた
ウエイトレスは眠そうに角砂糖を一つずつ口の中で砕いていた
男は続けて言った
「果皮もむかずにそのまま食べる方法があります
果皮に含まれる苦い味が
人々のお気に入りなのかもしれません
レモンはいつも南国で収穫される果物です
南国の人々がどうやってレモンを食べるのか知っていますか？
果皮もむかずにそのまま食べるのです
人々は心の中で
苦いものを欲しているのかもしれません
苦いものを食べてしまった後悔の念が
人々が忘れてしまったものを思い出させるのかもしれません
ですが人は何を思い出すのでしょう
『人生は酸っぱい』というのが
世間でよく使われる格言です
そう、人生とは
皮をむいてしまったレモンのようなものなのです
考えてみれば
レモンの皮はいとも簡単にむけてしまうものなのです
人々は結局
酸っぱいだけのものは好きではないのです」
男は私にレモンを一個手渡した
そして男は自分が手にしているレモンに皮ごとかじりつき
歪んで渋い顔をしてみせた
私は手にしたレモンを見つめていた
見つめながらも
ウエイトレスが角砂糖をかみ砕く音に耳を傾けていた
『薄明の朝』
「国籍不明の軍隊が我が国を今朝侵略しました
国民の皆さんは危険ですから
一歩も家の外には出ないで下さい」
テレビの中でアナウンサーが半狂乱になってそう叫んでいた
私はチャンネルを変えてみた
「人生というものは川でありまして
川はやがて海に流れ込み
海はやがて世界の果てで滝のようになっていて尽きているのです」
テレビの中では杖を持った老人がこちらを向いて語っていた
私はチャンネルを変えた
家の外が騒々しいのが気になっていた
「青少年の健全な育成には
反復する日常が必要です
知能の発育のことも考えますと
毎日300ピースのパズルを繰り返し行うのが適当でしょう
そこで今日ご紹介いたしますのが
こちらのお買い得なパズルです」
身だしなみのきちんとしたグレーのスーツ姿の男が
テレビの中で語っていた
「スピードに人々は熱中します
食い逃げは犯罪ですが
自分の足で達成されるスピードは快楽の骨頂です
ですから最近深夜の街道で
若者達が短距離競走をするのがはやっているのはそういった理由であるのです」
別のテレビでは女性がそう語っていた
私は外の騒音が気になり玄関に行きドアを開けた
ドアの外にはサーカスの一団が延々と列をつくって行進していた
私は家の中へ戻りテレビを消し
コーヒーをいれはじめた
コーヒーの匂いを感じながら
つい今しがたまで自分が何を考えていたか思い出そうとしていた
『クローン鶏の細胞スープ』
「永遠について思いを馳せれば
少しは気分が楽になる」というのが僕の祖父の口癖だった
抽象的なものは僕は苦手だった
文明というものが常に巨大な観念の上に成り立っていることは知っていたが
空に舞い上がった風船の行き先を考えた時に感じる不安を
抽象的なものに対しても感じていたのだった
「人さまざま」という言葉もあるが
祖父もまた人間の巨大な念の上で
その生を全うしたのだと思う
今、僕の隣では
屋台に座った男達が理解できない外国語で会話している
ひょっとしたら彼らの食べているクローン鶏の細胞スープについて
話しているのかもしれない
クローン鶏の細胞スープはいつも会話にのぼるほど
クセのある食べ物だからだ
思い返せば多くの友人が
多くの友人が旅立って
僕の元から去っていった
彼らをつきうごかしていたのは「願い」や「憧れ」なのではなく
存在することの「焦り」だったのだと思う
事実宇宙は爆発して拡大し
今この瞬間も空間を生み出して肥大化しているからだ
僕がまだひどく若かった頃
僕の口癖は「何も出来ない」だった
それは無力感から出た言葉というよりも
どこから手をつけたらよいのかわからないとまどいから出た言葉だった
しばらく僕は自分の写真を見ていない
過去は確かめるまでもないと
僕はひょっとしたら思っているのかもしれない
クローン鶏の細胞スープはクセがあるが
慣れれば癖になる味とも言われている
僕は毎日ここの屋台で
細胞スープを二杯飲むのを習慣としている
Ｔ．Ｍ（宮田直）profile
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