たのしかったおんせんりょこう　　　　三年Ａ組 樋口えみこ

その宿のサービスのひとつに

女性客が好きな柄の浴衣を選べる

というのがあって

いい年をして恥ずかしいと迷っていると

せっかくなんだから赤い華やかなのを

着てみればいいよと

そのひとはいった

そっけないそのひとは

ときどきうれしい決断をさせる

そのひとのことをまだよく知らない

私は花火のような赤い浴衣に

黄色い帯を四苦八苦して体に巻いた

解いてしまうために

雷鳴がとどろいていた

ぴったりとくっついていると

部屋の照明が落ちた

こわがりなひとが今はのんびりしている

大丈夫だろう？

大丈夫だよね

大丈夫だと思えたことは今までほんとうに

すくなかったな

大丈夫だと思えるところへ

こんなふうに来たかった

だれと？

おとうさんと、かもしれない

取り戻せない子どもじだいを

あきらめきれないいもうと、

むせきにんにしんでしまったおかあさんと、

かもしれない、あるいは

けんかばかりして

傷つけあってしまった

こころのきれいなひとと、

かもしれない

あそこへ行こうここへ行こうと

ゆめみるように誘ってくれた育ちのいい

おくさんのいるひとと、

かもしれない

（皮肉じゃないよ）

ずいぶんはげしく降っている

雨、やまないのだと思っていたら

せせらぎの音らしい

障子戸を引いて窓を押しあけてみると

大気は乾いていく途中で

伸ばした腕を冷やしてにげる

空、まっくらだよ

呼び慣れない名前を

くちにだして

ねむってしまった今いるひとを

記憶する

私、ねむっているひとの顔を

見ているのが好きだ

ねむっているひとは

とおいところに今いるのだが

皮膚に触れれば反応を返す

そこでなにをしているの？

私の知らないあなたのとおいところを私が

まもっているという考え方に安息をおぼえる

どういうことかわからないという顔を

そのひとはするだろう

私にもよくわからない

私、へんなひとだから

わからないことを知りたいだけで

ここまで来てる

きゅうに

いないひとなら

起こせないのだという考え方が浮かんできて

そのひとの背中に腕を巻きつけるとそのひとは

ほそく目をあけて私の近くへ帰ってくる

ほかのだれでもない

そのひとではないひととは来なかったのだ

腕にちからをいれてみると

そのひとのとおいところがちかづいてくる

錯覚なのかもしれないけれども

雨があがったみたいだよ

おこないがいいからと、うれしそうに

応えるそのひとの知らないところを

いつまでも知らないままでまもっている

ということができるなら私ももうすこし

とおいところまで、足をのばすことが、

まわりくどいね、できるのかもしれない

体に触れているのが好きなんだという、

さわれるのは表面だけだから、つよく

ゆすってみると見たことのない思い出が

湧きあがってきて私、からだが膨らむ、

この膨らみをひとに分け与えたいと思う、

へんな私、なにがおかしいの、と

自分も笑っているそのひとはこのひとなんだ、なんだか

じかんがたっていくのは、

とてもおかしくて